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被害と赦し【2人のローマ教皇】

2019年Netflix製作『2人のローマ教皇』見ました!

監督はフェルナンド・メイレレス。主演は我らがアンソニー・ホプキンスジョナサン・プライス

 

監督・主演

フェルナンド監督は「ナイロビの蜂」や「シティ・オブ・ゴッド」を撮られている方です。

アンソニー・ホプキンスは我らが凶悪犯「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクター博士役の俳優さんです。ドラマ「ハンニバル」の秘宝マッツ・ミケルセンではなく初老のガタイのいい博士のほうです。

ハンニバル・レクター博士は人肉食の殺人鬼です。無礼者を食べ、その腸をまろびだしレイアウトします。映画界において人肉食のシンボルのようなキャラクター。映画史上5本の指に入るような悪者であるのも見れば納得の凶悪ぶりなのでぜひ見てみてください。「羊たちの沈黙」面白いですよ!

その他にもスティーブン・キング原作映画「アトランティスのこころ」や、「ザ・ライトーエクソシストの真実ー」など、何を考えているのかよく分からない不穏な老人の役をよく演じられています。彼は演じるにあたって原作や人物の背景を研究するタイプではないようで、脚本に書いてあることをやるだけ、脚本に全て書いてあるんだというようなことを以前なにかのインタビューで言っていました。(アトランティスのこころ羊たちの沈黙のメイキングだったと思います)

彼の演技の正体不明感はそこから来ているんじゃないか、マジでなんも考えてないんじゃないか、自分でも何なのかよく分からないものをそのまま演じているんじゃないか、そういうことができて映画としてものすごく効果的に成立するのがすごいよな...と出演作を見るたびに思います。

ジョナサン・プライスは我らがゲームオブスローンズのハイ・スパロウですよ。雀聖下。どこかで見たことあると思った。

レクター博士と雀聖下がカトリック教会の最高位聖職者を演じていいのか?カトリック的にそういうのいいの?と思いましたね。日本だと天皇陛下の役を山田孝之が演じる感じでしょうか。わりとアウトでは...という気もしますが、また違うかな。

 

 

ストーリー 

ベネディクト16世アンソニー・ホプキンス)がホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿ジョナサン・プライス)を呼び出します。そしてそれぞれが自らの過去について話します。

町山智浩さんがラジオでおっしゃっていたとおり、保守派と改革派の二人は意見も性格も全く違うけれど、何か仲がいい。反目していたけれど、今になってお互いの芯の部分はお互いが一番分かるんだ、というような関係性。掛け合いが面白く、ドラマは深い。過ちと赦しというキリスト教の精髄に触れるようなとてもいい映画でした

miyearnzzlabo.com

 野心家で自分は青年期に神学へ逃げたと吐露するような頭の堅い孤独なおじいさんと、若者に交じってサッカーを観戦するようなおじいさん2人の罪にまつわるストーリーです。

 

すごくいい映画でしたが、ん?という部分もありました。

 

<以下内容に言及していますので、ご注意ください。> 

 

ホルヘ枢機卿の過去

改革派であり、スポーツバーでサッカー鑑賞をするようなホルヘ枢機卿ですが、彼には重たい過去があります。

祖国アルゼンチンでは1976年から1983年にかけてクーデターによる軍事独裁政権が敷かれていました。独裁政権に反対する活動家や学生、神父は拘束・拷問を受け、3万人が死亡・行方不明になったと言われています。

政権に反対し拷問を受ける神父がいる一方で、ホルヘ枢機卿はその神父たちのことを庇わず、積極的に政権に反対する立場をとりませんでした。保身と、体制に組しながら救える命を救うための行動のように作中では描かれていました。

権力に日和って生き延びた過去が、彼の抱える「罪」でした。

 

カトリック教会の隠ぺい

一方、精進料理のようなミンチのスープを食べている保守派ベネディクト16世の罪は、というより疑惑は「神父による児童への性的虐待」を「カトリック教会全体で組織的に隠ぺいしていた」ことです。

詳しくは2015年製作『スポットライト 世紀のスクープ』をご鑑賞ください!

ボストンという町ぐるみでカトリックを信仰している土地で「神父による児童虐待」に光を当てるとはどういうことなのか。ドキュメンタリーとしてもサスペンスとしても面白い、個人的には新聞記者という職業魂に打ちぬかれる作品でした。

第88回アカデミー賞では作品賞と脚本賞を受賞しています。2019年12月30日現在、Netflixで配信されています~。ぜひお時間あれば見てみてください~。

 

スポットライトで描かれているのが、「神父に虐待を受けるということが、被害者にとってどういう意味を持つのか」ということ。

日本だとあまり実感がわきませんが、信仰というのは文字通り「信頼すること」。普段生きていて、信頼できるものってあるでしょうか?家族だったり、自分だったり、友人だったり、それぞれ信頼しているものはあると思います。

ですが、家族も自分も友人も、病気だったり災害だったり景気だったり、「自分の意思ではどうにもならないもの」によって左右される存在です。信頼してるけど、どうなるかは分からないよ!っていうのがあります。

不変のものがない世界で、なにか揺るがないものはないか?となったときに、「信仰」だったり「宗教」だったり「神様」があるのではないかと個人的に思っています。

「善い行いを神様は見てくれている。だから善いことをして生きる」とか「信じる者は救われる」とか「神様がいるのか死後の世界があるのかとか分からないけど、自分の魂のようなもののために悪いことはしない」とかそういうのではないかと。

で、そういう「信じているもの」がキリスト教カトリックだったとき、カトリック教会っていうのは「信じているものの代表」だと思うのです。子どもは親の言うことが「正しい」ともはや無意識的に信じるところがあると思うので、親が熱心なカトリック信者だったようなとき、子どもにとっても神父さんは「正しい人」「尊敬する人」になると思います。

その神父さんから性的虐待を受ける。自分に対してイヤなことをしてくる人を、お父さんやお母さんは尊敬してえらい人だと言っている。もし自分の子ども時代にそういうことがあったらと想像すると、何が何だか分からなくておかしくなりそうです。

 

そして、その神父さんが犯罪者だったと認識できるようになってからも、「信仰の代表者」から虐待を受けたとき、それでも信仰を持ち続けることはできるのでしょうか。犯罪者のせいで、将来にわたって信仰を奪われることもありうるのです。

スポットライトでは「信仰と組織は別」とする人物も登場しています。

 

そういう被害をカトリック教会は隠ぺいしていた。

なんのために?というと、やはり協会の権威のためじゃないのかなと思います。

 

ホルヘ枢機卿ベネディクト16世の告白

生き延びるために人を殺し続ける軍事政権を黙認することと、組織の権威のために神父の虐待を公にしないことは、ちょっと違くないか?と思いました。

ベネディクト16世が神父によって何千人もの子どもが虐待されていた事実を知っていたのかは定かではないですが、もし知っていたとしたら、それを公表しても命は落としませんよね。信者が減って、協会の権威は下がるかもしれませんが。

公表によって教会を信じられなくなって信仰を失った人が辛い思いをするというのはあるかもしれないけれど、事実が隠された上で信じても信じられても仕方ないんじゃないのかと思います。

 

2人の罪を同じ映画で語るという部分に、若干プロパガンダ的というか、教皇のイメージアップのための映画っぽいな....と感じました。

私や私の子どもが虐待の被害者だった場合、勝手に許されてないで謝罪に来て。許すか許さないかはそれからだ!と思っちゃいますね。

 

この映画が描くホルヘ枢機卿の過去には、はたして自分だったらどうするだろうか?彼の選択は罪なのだろうか?など、簡単に善悪に分割できない難しい部分が語られています。ベネディクト16世の選択についても、ホルヘ枢機卿が直面したような外圧であったり様々な事情がきっとあったんだと思いますが、今「赦し」のストーリーのなかで語られることではないだろと思いました。

 

『二人のローマ教皇』ぜひ見てみてください~

 

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