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これは誰の物語なのか【ジョーカー】

 

2019年製作『ジョーカー』見ました~。

監督はトッド・フィリップス、主演はホアキン・フェニックストッド・フィリップスハングオーバーの監督をされている方です。ホアキン・フェニックスリヴァー・フェニックスの弟さんですね。

リヴァー・フェニックスは映画『スタンド・バイ・ミー』で主人公の親友クリス・チェンバーズを演じています。名作&名演なのでお時間ある方はぜひ見てみてください~。

ホアキン自身は『her/世界でひとつの彼女』で主演をされています。今作と顔が全然違うので見比べて初めてほんとだ...となるレベルです。

 

『ジョーカー』はバットマンヴィラン誕生譚になります。

 

ストーリー

舞台は1981年のゴッサムシティ。雇われピエロをしている主人公アーサーは、ストレスや何かをきっかけに突然笑い出すという病気を患っていて、精神病や笑いの発作に耐えながらいつかコメディアンになることを目標に生きています。

笑いの発作といっても「あははっ」という感じのいい笑いではなく、「ヒァーハッハッヒァーハッハッ」と不気味な笑いで、ガリガリで不健康そうな容貌とあいまって目を合わせてはいけない人のそれになっています。

街の不良少年に暴行を受けたアーサーを気遣い同僚が彼に銃を渡しますが、その銃をきっかけに色々な苦痛がドミノ倒しのようにアーサーを襲います。

 


<以下、内容に言及していますので、ご注意ください>

 

これは一体「誰」の物語なのか

『ジョーカー』が公開されてから、賛否分かれる感想とトリックの考察・解説に目を通し、映画の見方がどんどん変わっていきました。のちにジョーカーに変わるアーサー・フレックは「可哀想な社会的弱者」なのか「他責思考の末、自分は加害者になってもいいと考える危険人物」なのか、「社会的弱者であり、他責思考の末、自分は加害者になってもいいと考えるに至った危険人物」なのか、「社会的正義や善を憎むウソつき」なのか。

個人的には『ジョーカー』のアーサーは「社会的弱者であり、他責思考の末、自分は加害者になってもいいと考えるに至った危険人物」で、『ダークナイト』のジョーカーは「社会的正義や善を憎むウソつき」かなと思います。

ダークナイト』のジョーカーは、狂ってるのにすごく理知的に作戦を立ててくるところや、善悪の際を攻めた状況設定を作り上げてくるところがすごいですよね。冷静な判断力を残したまま、人を殺すことに振り切れる精神状態ってどういうものなんだろうか?と思います。そのヤバさと分からなさがヒース・レジャー演ずるジョーカーの魅力だったなと思います。

 

「可哀想な社会的弱者」の物語

 初見はずばり「ジョーカー同情派」でした。

ヒースレジャー版ジョーカーに対話15秒で銃殺される類の心情です。

毎日母の世話をしないといけなくて、ろくな仕事もなく、自分のせいではない病気のため周囲から気味悪がられる。マトモな仕事をしようとしたって、笑いの発作のせいでできないのかもしれない。

そういう人間が心の救いとしていた「母親」や「顔も知らない父親」、「笑いの世界に導いてくれた憧れの人」全員に手を振り払われて「お前なんて知らねーよ」と言われる。アーサー・フレックがジョーカーになった最初のきっかけは証券マンの銃殺ですが、銃殺にいたるまでの彼の心情に、映画を観ている間は違和感なく感情移入できたのです...。

自分の顔も知らない父親は大富豪のトーマス・ウェインかもしれない。豪邸で出会った少年は僕の弟かもしれない。そんな夢を見たあとに、すべては母親の虚言だったことが分かる。母親は狂ってて話にならないし、僕には何もない。なんで、あの子供が持っているものを、僕は何も持っていないんだろう。

大富豪の子息に話しかけようとして、病原菌持ちのネズミのように追い払われる。

 

怒りを他者への攻撃に変えるのは、現実世界では賛成できません。

演技にもストーリーにもリアリティがある世界を語り、その延長上にフィクション界のスーパーヴィランを誕生させたの、その揺さぶりの仕方が本当にジョーカーっぽい。

 

下記の感想を読んで単純に「ジョーカーもっとやれ!」とは思えなくなりましたが、それでもアーサーをただインセルのヤバい奴だとも思えない微妙なところに着地しています。

 

「他責思考の末、自分は加害者になってもいいと考える危険人物」の物語

最初はアーサーがジョーカーになるのも仕方ない派だったのですが、槙野さやかさんの感想を読んでひっくり返りました。

note.com

さあ、おわかりいただけだたろうか。アーサーの怪物性がいかなるものであるかを。アーサーはなぜジョーカーになったか。アーサーは貧しかったからジョーカーになったのではない。アーサーは不運だったからジョーカーになったのではない。アーサーは「自分は大金持ちの有名人の子に生まれてテレビでスポットライトを浴びて子どもたちに大人気のコメディスターであるはずなのに、そうじゃなかった」からジョーカーになったのだ。アーサーは、自分は無限の賞賛を浴びて当然の人物だと(無根拠に!)思い上がっていたから、ジョーカーになったのだ。

 

ジョーカーに賛成していた自分が見過ごしていた部分を気持ちいいくらい真っ当に説明されました。同時に、『主観』で描かれた映画に引っ張られるってこういうことなのか、と実感しましたね。

アーサーの辛さ分かる...という感情移入から、アーサーの気持ちに引っ張られて、ジョーカー万歳!までいってしまった自分に驚きました。

 

 

ジョーカー誕生にある説得力

一方で、アーサーが感じていた鬱憤は現実世界でも着実に蓄えられているように思います。

槙野さやかさんが論じられているとおり、アーサー・フレックの境遇は「彼の行動が故にそうなった」という部分が確かにあると思う。(仕事現場に銃を持って行った。いくつになってもコメディアン志望など)

でも、彼に共感した現実世界の人々の不満は、はたしてどれくらいが自己責任で、どれぐらいが本当の理不尽なんだろうかと考えるとまた話が変わってくるかなーと思います。

現代の貧困と格差は、個人の行動で挽回できるレベルにあるのでしょうか。

 

 

是非を論じると非常に難しくなってしまいますが、ホアキンの演技は鬼気迫っていて、アメコミという枠でこれだけ社会派の映画を見られたことがとても新鮮でよかったです。

フィクションの悪に惹かれる気持ちって確かに存在するのでむずかしいですね。

 

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