『ダンケルク』あらすじと感想。クリストファー・ノーランが描く戦争【ネタバレあり】ノーラン企画②
クリストファー・ノーラン監督をテネットする企画、第二弾。
クリストファー・ノーランによる10作目の監督作品、『ダンケルク』見ました~。
陸・海・空の視点からダンケルク救出作戦を生きた登場人物たちの一幕を描いた作品でした。
同じく戦争を扱った映画『プライベート・ライアン』のような徹底的な痛みの描写こそなかったものの、人物の動き・ストーリーについては、とても写実的に描かれています。
第二次世界大戦を生きた兵士の一幕が、監督自身の想像力により、映画としても歴史を後世に残すためのストーリーとしても機能するような作品に仕上がっていました。
登場人物
陸【一週間]
トミー
本作の主人公的人物。
ドイツ兵が迫る仏ダンケルクで救助を待つ陸軍兵士。逃げ延びた海岸でギブソンと出会う。
海岸で出会ってからトミーと行動を共にする兵士。頑なに話さない。
アレックス
ハイランダーズ所属の陸軍兵士。沈没した船から逃げる際にトミーとギブソンに助けられる。
海[1日]
ドーソンさん
遊覧船ムーンストーン号の船長である英国市民。
軍に船を渡さず、自らが船長としてダンケルクへ兵士救出に向かう。
ピーター
ドーソンさんの息子。ムーンストーン号に同乗し、ダンケルクへ向かう。
ジョージ
ドーソン親子の知り合いの青年。二人と同じ船に乗り、ダンケルクへ向かう。
名前のない英国兵
沈没する船の上にいたところをムーンストーン号に助けられる。ダンケルクからイギリスへ向かっていた兵士。
ムーンストーン号がダンケルクへ向かうと知り、恐慌状態に陥る。
空[1時間]
ファリア
イギリス空軍のパイロット。スピットファイアに乗りダンケルクへ向かう。
戦闘序盤に燃料メーターが壊れてしまう。
コリンズ
イギリス空軍のパイロット。
ファリアと同じ部隊でダンケルクへ向かうが、空中戦で機体を撃たれ、海に不時着する。
あらすじ
1940年、第二次世界大戦初期。ナチス・ドイツによるフランス侵攻が行われている。
仏の港町ダンケルクでは40万人もの英・仏兵士が取り残され、イギリスへ向かうための救助船を待っていた。
ダンケルク撤退の様子が陸・海・空の登場人物たちの視点を織り交ぜて描かれていく。
陸パートでは一週間の間で起きた出来事
海パートでは一日のうちに起きた出来事
空パートでは一時間のうちに起きた出来事
が描かれる。
陸パート
主人公トミーがギブソンと名乗る兵士と出会う。
ダンケルクには40万人の英兵、仏兵が取り残されている。彼ら全員の救助はほぼ不可能と考えられており、イギリスからやってくる船には英兵が優先的に乗せられていた。
イギリス人の中でも、傷病兵や将校が優先的に脱出していく中、二等兵であるトミーはギブソンとともになんとか船に乗り込もうとするが...
海パート
民間船舶ムーンストーン号がダンケルク救出作戦のために徴用される。
民間人であるドーソンとその息子ピーター。そして船に乗り合わせた青年ジョージはダンケルクへ向かう。
途中、ダンケルクから逃げてきた英兵を救出するが、船がダンケルクへと向かっていることを知った男は恐慌状態に陥る。
男を落ち着かせようとしたジョージは乱暴に手を振り払われ、階下の船室へ転倒してしまい...
空パート
三機のうち二機はドイツ兵との戦闘により墜落・不時着する。
スピットファイアのパイロットであるコリンズ、ファリアは、イギリスで行われるだろう本土決戦のため、帰還用の燃料を残しておくよう指示されていたが...
クリストファー・ノーラン監督をテネットする
エイガジェルでは『クリストファー・ノーラン監督をテネットする』という題で、クリストファー・ノーラン監督のオブセッションを探る企画を絶賛進行しています。
[memo title="ちなみにオブセッションとは"]「妄想、脅迫観念」の意味。古くは悪魔や悪霊による「憑依」の意味ももつが、現代では「時に不合理とわかっていながらある考えや感情がしつこく浮かんできたり、不安なほど気掛かりになること」という精神医学・心理学的な精神の乱れを指す。
(出典:現代美術用語辞典 1.0)[/memo]
企画は、以下7作を
フォロウィング(1998)
メメント(2000)
プレステージ(2006)
インセプション(2010)
インターステラー(2014)
ダンケルク(2017)
TENET テネット(2020)
以下の順番で見ていくことで
↓④フォロウィング(1998)
↓⑤メメント(2000)
↓⑥プレステージ(2006)
⑦インセプション(2010)
↑③インターステラー(2014)
↑②ダンケルク(2017)
↑①TENET テネット(2020)
「挟み撃ち作戦でノーラン監督のオブセッションを探っていくぜ」というそういう心意気のものです。
監督挟み撃ち作戦:現在の状況
現在は第一回『TENET テネット』の考察が終わっている状況です。
テネットでは
時間
夫婦
SF
が監督のオブセッション候補として出てきました。
それを踏まえてダンケルクの考察に入りたいと思います。
ちなみに
筆者はノーラン監督作品のうち、
バットマンシリーズ
メメント
インセプション
インターステラー
ダンケルク
TENET テネット
を鑑賞済です。
※筆者が鑑賞済みの作品の内容にも言及していきますのでご注意ください。
ダンケルクから見えてくる監督のオブセッション
戦いや正義が舞台になっている作品だからか、ダンケルクには『ダークナイト』と共通する問いかけや思想が多かったです。
この映画を言葉で説明しようとする人間を発狂させる『時間』のマジックも健在でした。
ノーラン監督はなぜここまで時間を使った表現にこだわるのか.....本気で分からん............
時間にトラウマでもあるのでしょうか。時間だけはコントロールできないことへの恐怖を作品に昇華させている....?(それくらいしか思いつかない)
命の順番
『ダークナイト』でジョーカーは、一般人ばかりが乗っている船と凶悪犯ばかりが乗っている船にそれぞれダイナマイトを仕掛けました。
そしてお互いにお互いの爆弾の起爆スイッチを持たせ、「自分たちが助かるために、相手の船を爆破するボタンを押せ!」とけしかけたのです。
自分たちが助かるためなら、相手の船を爆破するボタンを押すのも仕方ないんじゃない...?
そもそも相手は犯罪者ばかりが乗っている船でしょ、なら、私たちの方が助かるべきなんじゃない...?
あいつらは俺たちより自分たちの命を優先するに決まってる。だから、あいつらより早くボタンを押さないと....
バットマンがジョーカーを追い詰めている間に、観客と船に乗っている人々を揺さぶった問いでした。
ノーラン監督は、今作ダンケルクでも『命の順番』について描いています。
ナチス・ドイツに征服されつつあるフランス。
ダンケルクの海岸では40万人ものイギリス人兵士、フランス人兵士たちが助けを待っています。
イギリスから派遣される船が圧倒的に足りていない状況で、英国将校たちはイギリス人兵士を優先して脱出船に乗せていきます。
同盟国であれど、イギリスから来た船なんだからイギリス人が先だ、という論理です。
そんな中、フランス人はここに置いていかれると気づいたギブソンは、死んだイギリス人兵士の服とIDを盗み、英国人になりすましました。
後にハイランダーズのアレックスは、ギブソンとトミーに向かって、命の順番を語ります。
フランス人兵士よりイギリス人兵士、そして、ただのイギリス人兵士よりも、ハイランダーズの仲間の命が優先されると。
平和で皆が充足していれば表に出ることはないが、危機的状況に陥ることによって、従前より存在していた命の順番が明らかになる。
命に順番はあるのか?命に順番をつけるのか?
その選択を迫ることによって、ノーラン監督はストーリーの緊張感を高めていますね。
監督の中でも究極の問いとして存在しているのではないかと思います。
言わない真実
海パートで、ムーンストーン号に乗り込んだ青年ジョージは死んでしまいます。
ナチスドイツに攻撃されたのではなく、ダンケルクへ戻ることを拒んだ英国兵士と揉み合った末の事故でした。
ジョージがケガをしたことで英国兵士は恐慌状態から我に返ります。そして、ムーンストーン号は無事ダンケルクに到着し、空パートのコリンズと陸パートのトミーとアレックスの命を救いました。
しかし、道中、ジョージの怪我は悪化し、彼は死んでしまいます。
ドーソン親子は、英国兵士にジョージの死を明かしませんでした。
英国兵士はダンケルクから英国に戻る途中、魚雷の攻撃を受け、一人生き残り遭難していたところをムーンストーン号に助けられていました。
彼が「ジョージは大丈夫か?」とドーソンさんの息子ピーターに尋ねたとき、ピーターは一瞬湧き上がった怒りを抑え、「彼は無事だよ」と伝えます。
このシーンは、トゥーフェイスとしてのハーヴェイ・デントを公に晒さなかったバットマンの選択に通じるものを感じました。
ピーターとブルース・ウェインの選択に通じるものは一体何なのか、
単純に言えば、彼らは二人とも『真実を明かさない』決断をしたのです。それが善だと判断したから。
なぜこの二人の決断にカタルシスを感じるのか、そこには人間の根源的なものに通じる何かがあるような気がするのですが、詳しくは分かりません...
神話や倫理、正義と絡めて論文が一つ書けそうなくらいのテーゼである予感がします。
[memo title="ちなみにテーゼとは"]最初に呈示された(または呈示する)命題または命題群。「最初に」というのは、次にアンチテーゼが来ること、もしくはその可能性を想定しているから。ヘーゲル哲学、マルクス哲学で用いられた用語が一般化したもの。定立。
(出典:Weblio辞書)[/memo]
[memo title="命題とは"]
命題(めいだい、英語: proposition)とは、論理学において判断を言語で表したもので、真または偽という性質(真理値)をもつもの[1][2]。また数学で、真偽の判断の対象となる文章または式。定理または問題のこと[3]。西周による訳語の一つ[4][5]。
(出典:Weblio辞書)[/memo]
[memo title="ちなみにカタルシスとは"]文学作品などの鑑賞において、そこに展開される世界への感情移入が行われることで、日常生活の中で抑圧されていた感情が解放され、快感がもたらされること。特に悲劇のもたらす効果としてアリストテレスが説いた。浄化。
(出典:Weblio辞書)[/memo]
大なり小なり人は「言わない真実」を抱えて生きているから、ピーターやブルースの決断に共感できるのだろう、というのが現時点でかろうじて分かることです。
命の選別
ダンケルクのアレックス、ダークナイトのトゥーフェイス、インターステラーのマットデイモンと、ノーラン監督の映画には「元は多分悪い奴じゃないのに追い詰められた結果めっちゃ悪いことをする」人間が印象的に登場します。
ハイランダーズの仲間と、ハイランダーズではないトミーとギブソンたちとで商船に身を潜めている際、ドイツ兵からの銃弾を受けた。
船底に穴があき、穴をふさがなければ船が沈み、ダンケルクからの脱出の不可能になる。
そのような状況下で、アレックスはイギリス人兵士に扮した仏兵ギブソンに対して、「たとえお前が撃たれようとも、穴をふさぐのはお前の役目だ」と銃を突きつけます。
これはアレックスが悪いことをした、というよりも、『究極の状況下でアレックスは命の選別をした。他人の命を切り捨てた』という感じですね。
トゥーフェイスは、あの出来事を機に、他人の生死をコインの裏表で選ぶことにしました。
マットデイモンも、マシューマコノヒーよりも自分の命を選びました。
アレックスは悪を行ったのではなく、善ではないが、究極の選択を行った。
トゥーフェイスは、他者の生殺与奪の権がコインと自分にあるとした。傲慢であり悪であるが、そこに至った心情には、一定の真理があるような気がする。
マットデイモンもまたアレックスと同じように究極の選択を行った。けど、とてもクズな人間のように見えた。
ノーラン監督の映画に存在する、命の選別をしたキャラクターそれぞれの印象はこんな感じです。
命の選別という同じ行動をとったキャラクターに対し、「仕方なかった」「悪だが決定的な出来事があったから」「人間のクズっぽい」など、映画を通して受けた印象は様々です。
これはノーラン監督の、「命を選ぶ」という行動に対する様々なシュミレーションの結果ではないだろうかと思います。
「この場合は?」「じゃあこの場合はどうだろう?」と、監督自身も映画を撮るたびに考えていたのではないでしょうか。
究極の状況下で、登場人物に命の選別をするかしないかという選択をさせる。
そういうオブセッションがノーラン監督の中には存在していると思います。
そして、アレックスに対し「そうすべきではない」と言ったトミーやダンケルクに残った英国将校の行動が、監督の中に答えとして出てきたのではないかなと。
ダンケルクの次の作品であるテネットでは、「自分が病気で死ぬから世界を道連れにしようと思う」というとんでもない悪役が出てきます。
トゥーフェイスやアレックスと違って割と分かりやすく悪でした。
「他人の命を選別する」行為を極めて考えたら、「自分が死ぬときに世界中の人も殺す」になったのかもしれません。
命の選別という命題が監督の中で少しずつ消化されていっている感じが面白いですね。
思想の変遷という意味でも本当に新作が楽しみな監督です。映画文化永遠なれ...!
名前が出てこない主人公
ダンケルクの主人公はトミーという名前らしく、この記事でもトミーで通しているのですが、筆者、映画のなかでトミーという名前がどこで出てきたのか分かりません。名前呼ばれてたっけ? それかIDが映されていたのでしょうか。
ファリアやギブソンのように名前が印象的だったキャラクターがいる一方、ダンケルクの主人公トミーの名前は本当に記憶に残りませんでした。
なので今回の記事では、トミーを名前のない主人公として考えていきたいと思います。
名前のない主人公といえば、ノーラン監督最新作、『TENET テネット』です。
ダンケルクにて(ほとんど)名前のない主人公トミーが登場し、次作であるテネットで完全に名前が出てこない人物が主人公になったのは、ほぼ確実にノーラン監督の中で何かがあったのだろうと思います。
ここについて考察していくにはちょっと論拠が足りないので、掘り下げは監督の次回作が公開されたときに行いたいと思います。
監督のオブセッションとして「名前のない主人公」という概念が躍り出てきたことをこの記事では書いておきます。
やっぱり時間
そしてやはり時間です。
ノーラン監督は時間に並々ならない思いを抱いています。
本作ダンケルクも、一週間、一日、一時間の出来事を順番はバラバラに一つの映画にぶっこむという新手のスタイル。
インターステラーやテネットではアインシュタインの相対性理論やエントロピーを使って劇中の時間を操っていました。
しかし、ダンケルクは史実を描く映画ということで、劇中の時間は変えられない。
じゃあもう仕方ない。普通に、普通の時系列で進む映画を撮ろう。
……とは絶対ならない。それがクリストファー・ノーラン監督です。
監督はなぜそんなにも「時間」にこだわるのか。それを尋ねているインタビューがあれば教えてください。
そんなに時間にこだわるようになることってあるのか?という位、ノーラン監督は「時間」という存在に執着しているように見えます。
老いが怖いとか死ぬのが怖いとかそういうこだわり方ではなくて、「一定に進む時間」にどうしても抗いたいという欲求を感じますね。
「私、時間が一定に進むの嫌なんですよね」というような感覚を明確に持っていそうでこわいです。(畏怖です)
嫌いを感じるもののスケールが大きすぎる...。
まとめ:『ノーラン監督』×(『命の選別』+『時間』)=『ダンケルク』
命の順番
言わない真実
命の選別
名前が出てこない主人公
時間
でした。
命の順番と命の選別は別ものとして挙げています。
命の順番がまずあって、それから命の選別が行われるという流れのイメージです。言葉の概念としては微妙に違うので分けています。
5つのオブセッション候補のなかでも
命の選別
時間
の2つはやはり特に際立っているなーという印象。
時間にいたっては候補どころではなく確実に監督のオブセッションですしね。
これからあと5作品にわたって監督の作家性を追究していくのが楽しみです。
次は『インターステラー』について書いていきます。